ハングル - Wikipedia
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ハングル(한글、hangeul)は、朝鮮語または韓国語を表記するための表音文字である。1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、「訓民正音」(훈민 정음,Hunmin Jeong-eum)の名で公布した。北朝鮮ではチョソングルチャ(조선글자,joseongeulja)とも呼ばれる。
韓国、北朝鮮以外でも、旧ソ連の一部などで朝鮮民族の居住地域を中心に使われている。
朝鮮語は15世紀半ばまでそれを表記する固有の文字を持たず、口訣(こうけつ・くけつ)・吏読(りとう)など万葉仮名のように漢字を借りた表記法により断片的・暗示的に示されてきた。このような状況の下で李氏朝鮮(朝鮮王朝)第4代国王の世宗(在位1418年-1450年)は固有の文字であるハングルの創製を積極的に推し進めたが、その事業は当初から事大主義的な保守派から猛烈な反発を受けた。1444年に集賢殿副提学だった崔萬理らはハングル創製に反対する上疏文を提出し「自古九州之内、風土雖異、未有因方言而別爲文字者。唯蒙古・西夏・女眞・日本・西蕃之類、各有其字、是皆夷狄事耳、無足道者。(昔から中国の諸地は風土が異なっても、方言に基づいて文字を作った例はない。モンゴル・西夏・女真・日本・チベットなど は文字を持つが、これらはみな未開人のなすことであり、言うに足るものではない。)」と述べている。世宗はこのような反対派を押し切り、集賢殿内の新進の学者らに命じて1446年に訓民正音の名でハングルを頒布することとなった。字形の由来については起―成文図起源説、パスパ文字起源説など諸説がある。
当時の支配者層である両班(りょうはん、양반〈ヤンバン・韓国〉、량반〈リャンバン・北朝鮮〉)における公的な書記手段は漢文であり、中人・下級官吏の書記手段は吏読であった。従って、ハングルがこれらの階層において正規の書記手段として受け入れられることはなく、その結果ハングルは大体において民衆の書記手段として広まることになる[1]。とはいえ、実際には民衆のみならず、両班階層の私信や宮中の女子間の公文書などにもハングルが盛んに用いられ、その使用はかなり広範囲に及んでいた。
ハングルはまず国家的な出版事業において活用された。ハングル創製直後1447年には王朝を讃える頌歌『竜飛御天歌』、仏を讃える頌歌『月印千江之曲』、釈迦の一代記である『釈譜詳節』が相次いで刊行され、次いで1448年には韻書『東国正韻』を刊行した。その後も国家によるハングル文献の刊行は続き、諺解書(中国書籍の翻訳書)を中心にその分野は仏典・儒教関連書・実用書など多岐にわたる。刊行された書籍は各地で覆刻され版を重ねることが少なくなかった。
- 仏典:李朝初期には刊経都監が設置(1461年)され仏典翻訳が盛んに行われた。『楞厳経諺解』(1461年)、『法華経諺解』(1463年)、『金剛経諺解』(1464年)、『般若心経諺解』(1464年)、『円覚経諺解』(1465年)など15世紀に多くの仏典が刊行された。
- 儒教関連書:李氏朝鮮が儒教を国教としたことにより、儒教関連書は李朝を通して盛んに刊行された。四書五経などの翻訳本として『翻訳小学』(1517年)、『大学諺解』(1590年)、『周易諺解』(1606年)、『詩経諺解』(1613年)などがあり後世に重刊本も刊行された。また『三綱行実図諺解』(1481年)は儒教の民衆教化書として各種の版本が李朝後期まで何度も重刊されている。
- 実用書:『救急方諺解』(1466年)、『救急簡易方』(1489年)、『牛馬羊猪染疫治療方』(1541年)、『分門瘟疫易解方』(1542年)などの医書・家畜防疫書がたびたび刊行されている。また、通訳官養成所である司訳院からは日本語学習書『伊路波』(1492年)、中国語学習書『翻訳老乞大』(16世紀)、満州語学習書『清語老乞大』(1704年)、モンゴル語学習書『蒙語老乞大』(1741年)などハングルで音を示した外国語学習書が刊行された。
主に民衆の書記手段として用いられたハングルであるが、支配層におけるハングルの使用も少なくない。国王の記したハングル書簡としては、世祖の『上院寺御牒』(1464年)、宣祖の『御筆諺簡』(1603年)などをはじめとした筆写文献が現存している。また、李珥(李栗谷)、権好文、金尚容ら両班の文化人が時調(朝鮮の詩歌で和歌のようなものに当たる)を詠む際にも、ハングルが利用された。
ハングルによる文学作品も李朝を通して世に出ている。ハングル創製初期の詩歌『竜飛御天歌』、『月印千江之曲』は上述の通りであるが、それ以降にも『杜詩諺解』(1481年)などの翻訳漢詩集が刊行されている。中宗(在位1506年-1544年)以降の作品として金絿(1488年-1534年)の「花田別曲」、李賢輔(1467年-1555年)の「漁夫歌」、李滉(1501年-1570年)の「陶山十二曲」など、数々の詩歌が残っている。ハングル小説として本格的なさきがけとなったのは許筠(1569年-1618年)の『洪吉童伝』があり、また日記文学『癸丑日記』なども17世紀から見られる。その他にも『春香伝』、『沈清伝』(いずれも年代未詳)などパンソリを起源とする小説がハングルによる書籍として刊行されたりもした。
開化期になると民族意識の高揚とともにハングルが広く用いられるようになる。開化派と井上角五郎の協力により、朝鮮初の近代新聞(官報)である『漢城周報』(1886年創刊)が発行され、これには漢文のほかにハングルのみによる朝鮮文が採用された。それまで公的な文書においてハングルが正式に用いられることがなかった朝鮮において、政府の関与した文書にハングルで記された朝鮮文が採用された意義は大きい。
また、『漢城周報』では漢文的要素の強い朝鮮文である「国漢文」と呼ばれる新たな文体も同時に創作・採用された。国漢文の創作・採用に当たっては日本の漢文書き下し文の文体を参考にしたと見られるが、そのような経緯には福澤諭吉門下の井上角五郎の助力があったと見られる[2]。しかしながら、国漢文は漢文の素養を必要とする文体であったため、一般に広く流布するには至らなかった。1896年に創刊された『独立新聞』はハングルと英文による新聞であった。これは分かち書きを初めて導入した点でも注目される。公文書のハングル使用は、甲午改革の一環として1894年11月に公布された勅令1号公文式において、公文に国文(ハングル)を使用することを定めたことに始まる。
正書法に関しては「朝鮮語の正書法」を参照
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