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恩讐の彼方になにが残ったのか…
すさまじいばかりの自己肯定の極致、激躁(げきそう)をどうやって乗りきったか?(後編)
(前号までの粗筋:05年末に転勤をきっかけにうつ病を発症した私は、闘病2年後に病状が躁中心(激躁)に転じた。躁状態でテンションが異常に高くなり、自己過大評価と自信過剰になり、周囲との調和がとれないまま二度目の休職に追い込まれた。休職から復帰した後に待っていたのは激しい躁と自己抑制との戦い(自己葛藤)だった。仕事を遂行するうえでテンションを上げることは必要だが、それをコントロールできなければ周囲との摩擦につながる。そんなジレンマをどうして私は乗り越えたか?)
※生涯、躁鬱病に悩まされたゴッホだが、『炎の人』と呼ばれた彼の作品を見ると激動した彼の心境とたぐい稀なる才能を伺い知ることができる。(自画像1889年作)
ある人から相撲取りにとって一番の薬は白星(相手に勝つことだ)という話を聞いたことがあった。当然ながら白星は相撲取りにとって最もうれしいことで自信にもつながる。なにげないことだがこれは大きなヒントにもなり、励みになった言葉だった。まず自分に与えられた仕事を着実にこなすことが一番の薬(自信)なのではないのかと私は考えた。
信じられないかも知れないが、激躁のときはエンジン全開状態(レッドゾーンは無限∞)で、この絵のように夜でも明るいと感じることがあるのだ。(ローヌ川の星月夜1888年作)
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(注釈:躁病で気が高ぶって眠れずに過労死した症例もあるので、その前に精神の高ぶりをなんらかの方法で押さえなければならない。一般的には薬を使うのが手っ取り早い。しかしそれは一時的な症状の抑制であり根本的な改善ではない。)
車に例えると出力を上げすぎたターボつきの改造車はエンジンブローにつながる可能性がある。だからタービンやエンジンを保護するためのブーストコントローラー(ブーストを制御する装置)やウエストゲートバルブ(タービンに大きな圧力がかかる以前に排気を大気に開放する弁)を装着する必要があるのだ。これはなにもエンジン保護だけの目的ではない。ターボ装着の改造車のエンジンパワーは過大なのもがある(躁は時として自己主張が強すぎて周囲との大きな摩擦を生む)のでその有り余るパワーをウエストゲートバルブで大気に開放してやる(言いかえれば躁のもたらす過剰なエネルギーを他人に向けないようにする)必要もあるのだ。
それと4輪、2輪を問わず走り屋の世界では常識だが、改造車にはエンジンパワーに負けない足回り(強力なブレーキ、サスペンション、フレーム…:言いかえれば強い意志による自己制御の姿勢)の強化も不可欠である。
職場復帰後、私に与えられた仕事ではけして容易なものではなかった。組織人の一員として自我を抑え、いろいろな立場の人間との調和を考えて努力した。しかし決定的な回復への手掛かりは掴めないでいた。
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そんなある日、私は自分が生かされているのはけして偶然でなく、先祖が存在した(感謝の気持ち)からだと考えて、こっそりと実家の墓参りに行った。この時、墓に向かって合掌した私はポルトガル国歌の一節の「祖国を勝利に導く偉大なる先祖の声を聞け!」という歌詞を思い出していた。
※うつの時の私は沈んでいたが、けして下ばかり見ていたわけではない。この下の絵の中央の金髪の男(囚人)のように私もシャバ(うつからの回復)を見ていたのだ。
(刑務所の中庭にて、囚人の運動1890年作)
墓参りの後、しばらくして胸のつかえが取れような思いがした。この時から自分の躁を客観的に見ることができるようになった気がした。そしてそのとき気づいたのは躁と鬱との決定的な違いであった。躁は強い理性でコントロール(自己抑制)できても、鬱はできない(自らテンションを上げることは不可能)ということであった。
この時、私は回復に向う大きな手がかりを掴んだ。自分の躁を冷静に見ることが可能になったとき、躁はネガティブなものから一挙にポジティブなものに変貌したのである。毒をもって毒を制するということわざがあるが、あえてこのことを「躁をもって躁を制する」と表現したい。
今、ここに隠さずに告白する。当時私は何度も激情にかられた。しかし自分を客観的に見ることで、少しずつではあるがかすかな復調への兆しを実感し始めたのだ!
※激情にかられた炎の人ゴッホは生涯二度の精神病院への入院を経験している。この絵は耳を切ったあとで療養生活を送った療養所で描いた作品である。明るい色彩と力強い構図に彼の復調の兆しが伺える。(アルル療養院の中庭1889年作)
南太平洋はどこですか?しかしながら、ネガティブなものをポジティブなものに変えることはそんなに生易しいことではないかった。そこには大いなる心の葛藤(過去の自分との決別)があった。
そんな時、私は折しも大正時代の小説家、菊池寛の書いた「恩讐のかなたに」という小説を読んだ。
※活動中期のゴッホの作品、後期作品とはあきらかに違うが、19世紀後半の市街地の華やかな雰囲気と躍動感があふれる絵である。
(アニレールのレストラン1887年作)
以下、菊池寛小説「恩讐のかなたに」(1919年作)粗筋
封建時代に主人を殺して逃亡を図った男(主人の家来)は各地を逃亡し追剥になって強盗殺人などの非道を働く。その後男は改心して仏門に入り、罪滅ぼしの意味で隧道(トンネル)を掘る。初めのうち、周囲の人間は男を狂人扱いしたが、しだいに何年もひたむきに隧道を掘る男に共感して隧道堀りを手伝い始める。
そこに殺された主人の息子が敵討ちに現れる。男は切ってくれと言ったが周囲は隧道が完成するまで待ってくれと言って敵討は延期になる。息子は男をいつ殺して敵を討つかということだけを考えていたが、男の経文を唱えるその姿を見て自分も手伝う決心をする。
死に物狂いで掘った隧道が完成したのは隧道を掘りはじめてから21年の年月が流れていた。このとき息子とよぼよぼになった男に残ったのは恩讐でなく、一つの物事を成し遂げた人間同志の絆だけであった。
私はこの小説を読んで復讐心からは何も残らないと思った。息子が仇討ちを遂げていればおそらくはこのような隧道は残らなっただろう。この小説は一見このトンネルを掘りあげた男が主人公に思えるが、実は父の仇討ちを思いとどまった息子が主人公だったのだ。息子の過去への恩讐を捨てる気持ちが人様の役に立つ隧道の完成につながったのだ。
これからは生き方を変えよう。主人公である息子を見習い私自身も過去の恩讐を捨てて、後ろを振り返らず前だけを向いて人生を歩みたい。過去の恨み、つらみを捨ててこそ明るい未来が見えてくるのだ!
病気の副産物によるものなのだろうが、寛解(躁鬱の症状が収まったニュートラルな精神状態に戻ること)に至った私は以前の私と比べて性格がまったく変わった。これが元来持ち合わせた潜在的な性格によることなのか、或いは病的なものなのかの境界は誰にもわからない。知るのは神のみである。
※日中の風景を描いた珍しい作品、彼が描こうとした勤労の尊さ、そして豊かな収穫をもたらした農地はこの絵を見る者に生きる希望を与える。
(ラ・クロの収穫1888年作)
完(全3編)
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